言葉なんて生き物だろ

「極道」先生…意味が違う 都内中学の国語教諭 厳重注意
http://news.goo.ne.jp/news/sankei/shakai/20050407/m20050407018.html

東京都大田区立の中学校で昨年度、三年生の学級担任教諭が教室に「極道」と書いた学級スローガンの横断幕を掲げていたことが六日、明らかになった。教諭は四十歳代で国語担当。個人的な信条の「道をきわめる」という意味で掲げていたというが、辞書によると「極道」は「悪事をすること」などの意味。保護者から「おかしい」と指摘があり、学校側は「教育上、妥当性を欠く」として撤去し、区教委は教諭を厳重注意処分とした。

こんなんで、厳重注意受けなきゃなんないなんてつくづく住みにくい世の中だとつくづく思う。言葉に新しい解釈を加えることで、その言葉が本来の意味として定着する例なんていくつもある。例えば「確信犯」。まあこの単語なんかは相当ネットではネタにされてるからわかるけど、本来の意味を知らないまま使っている言葉なんてきっといくつもあるはずだ。
本来の意味での「極道」を学級のスローガンとするなら確かに問題だ。でも、別解釈の言葉としてなら至極まっとうなスローガンだと思う。「本来の美しい言葉を壊してはいけない」。年寄りだったり、頭の固い人ほどこの言葉を言う。ら抜き言葉とかね。僕に言わせりゃ、そういう人は古典で習ったような言葉使えよと思う。
言葉は生き物だ。そして、それは「道具としての」生き物だ。言葉は人がいて初めて意味を成す。人がいなければただの記号のハズだ。道具の使い方は人が決めればいい。そして、道具を使うのは「生きている」人だ。形式だとか伝統だけに固執する「死んでいる」人が使うものではない。
言葉の語感でイメージが形作られるというのはわかる。みうらじゅんが「暴走族」を「珍走団」と呼ぼうと言い出したのは目から鱗の思いをした記憶がある。極道という言葉に肯定的な意味を与えるのはどうかという考えもわかる。ただ、影響力がある人が言い出したわけではなく、あくまでミクロな世界での造語にまで目くじらを立てるのはなんとも大人げないというか視野が狭いというか。