動けない閉塞感

動けない。正確に言うと移動ができない。それだけのことがこんなにも辛いことの正体はいったい何なのだろうか。

 

僕は就職までは都心で生まれ育って、就職を機に少し離れた地方都市で暮らすことになった。週末は泊まりや日帰りで帰る暮らしをずっと続けていて、移動時間の長さは正直めんどくさかったんだけど、駅までのドライブや電車内でのアニメやゲームの時間は今思うと大切な時間だった。

 

そんなの別にアニメやゲームは家でできるし、ドライブだけならこのご時世だって別に問題はない。でも、駄目なんだよね。どうしても閉塞感が拭えない。どうしてなのかを緊急事態宣言の間、ずっと考えていた。

 

多分、その本質は意識の向き方なんだと思う。意識が自分に向けば向くほど、自分の嫌な所、冴えない日常、大きくなったらなりたかった自分との乖離、そういったものに自然に目が向いてしまう。小さな旅は日常との距離で、瞬間、自分を手放すことができる。その浮遊感みたいなものが心地よかったんだなって、失ってみると気がつく。

 

今やれることを考えながらやっていくしかない。やっていきましょう。

ガチャの原体験

ガチャは悪い文明!FGOのあまりにも有名になってしまったフレーズだし、今更何かを言っても仕方ないんだけど、久々に昔の記憶が戻ったので書いてしまおうと思う。

 

きっかけは、FFBE幻影戦争でアグリアスさんがどうしても欲しくて、いままでコツコツ貯めてきた石をあと1回だけ、あと1回だけとまわして結局全部吐き出してしまった時、久々に自分の欲を制御できなくなってしまったという自己嫌悪が発端。(結局、ラスト1回でアグリアスは引けた。でも育成する余力は吐き出してしまったので観賞用になってしまった。)

 

僕のガチャの原体験はドラゴンボールカードダスにあって、小学校低学年のころの僕のおこずかいは月1000円だった。たしか1回100円で5枚入だったような気がするけど今考えるとすごい時代だなあ。大人で言えば手取り20万だとして、もちろん生活費とかあるから同じじゃないけど、おおざっぱに言うと一回に2万突っ込んでるようなもんだからなあ。

とにかく、その時どうしても超サイヤ人悟空のキラが欲しくて月のはじめにおこずかいをものの5分くらいで溶かしてしまって、それがひどいトラウマになっている。その時だって連続で迷わず突っ込んだわけじゃなくって、1回まわすごとに、お菓子や漫画を買うことと天秤にかける葛藤をしながら、それでも心を削られながら1回ずつまわしていったあのイヤな感覚を今でも覚えている。

その月は食べたいお菓子も読みたい漫画も買えず、幸い子供なので衣食住には困らないわけだけど本当に惨めで悲しい思いをした。子供心に、もう二度とこんな惨めな思いはしたくないと思った。

 

当時は嫌な思い出だったし、手痛い出費だったけど、この体験は人生で考えると大きかった。それ以降、人生の中で欲を掻き立てるようなイベントが発生した時はちゃんと立ち止まって考えられるようになったし、まあ逆に言うと勇気を持って飛び込むべき場面を逃した場合もあるのかもしれないけど、それでもお金に困るようなことにはなってないのは悪いことじゃないんじゃないのかなと。

 

たまにゲームの中でこういう感覚を思い出して自戒するのもいいんじゃないかなあと。やってしまったと言ってもゲームの中の話で、無料石が吹っ飛んだだけの話なので。ただ、今の時代はリアルマネーが絡むからね。難しい時代になってきた。

文章を書く

世の中には黒歴史という言葉がある。僕は意外に黒歴史が好きなところがあって、当時の自分が全力で頑張ってやってたことに対して、他ならぬ自分がそれを笑ってはいけないよなって考え方を持ってる。

 

さて、世の中はコロナ全盛で、ご多分にもれず僕もどこにも行けない。そんな折、世のため人のためできることといえば黒歴史をほじくり出すことくらいかなと思ったわけだ。

 

もう久しくブログは書いていない。というかSNSすらやらずにきてしまったので、ネット上での文章を書くなんて本当に久しぶりで何を書いていいのかわからない。このブログも時間を持て余した当時の大学生が書き散らかしただけの文章でしかない。ただ本当におそろしいことは久しぶりに、13年ぶりに読み直してみても今と考え方がほとんど変わっていないことが本当におそろしい。

 

あやかしびとがこんなに前のことだと信じたくないと思う反面、世の中は動いていて、当時はエロゲーってわりと最新のメディアだったんだけど、今となっては骨董品扱いになってしまった。ビジュアルノベルは今でも大好きな媒体なんだけど、シュタインズゲートが到達点に達してしまって、それすらも10年以上前なんだよな。発売直後にXBOX360でプレイした時の興奮は今でも忘れない。当時ですら既に錆付いてしまった感性が、間違いなく過去最高を更新した瞬間だった。

 

僕も歴史上のすべての人間が通ってきたのと同じように、年齢を重ね少しずつ感性を失っている。でも、それでも、瞬間を。最高の瞬間を探したいんだよな。あの圧倒的に充足する感覚を。だからずっとオタクをやってるんだよな。周りが結婚し子供を産み社会的に必要とされるポジションにつくくらい時間を重ねても、そんな冗談みたいな時間を重ねても、その瞬間を求めてしまう。

 

久々に書く文章って楽しいな。黒歴史は過去じゃなくてまだ続いてんだな。

あやかしびとにおもうこと

arfy2006-08-25

読書は想像のメディアだろう。単語の集合体にすぎないそれに怒り笑い涙を流すことができるのは、過去の経験としてそれを知っているから。どんなに高いクオリティの映像を作り出しても、人の想像力には及ばないといわれることがある。でも、果たしてそれがすべてに当てはまるだろうか?
読書の対極にあるメディアは映画だろう(字幕のものはまた少し赴きが変わってしまうけれど)。映像、音声、効果音。人へ訴えかけられるすべてを駆使して、虚構の世界に没頭させようとする。そう、映画には映画の、読書には読書の魅力がある。それらを同系列に語ること自体が意味のないもののように僕は思う。
サウンドノベルの走りは「弟切草」だろう。ビジュアルノベルはそこから始まり「かまいたちの夜」を経て、現在のエロゲー文化へとつながっていく。(もっとも弟切草かまいたちの夜は人物がシルエットだったので、より小説に近い体裁ではあったけれど)。ここで問いたい。何故エロゲーなのか?もっと言えば、何故エロゲーだけなのか?小説と映画の中間に存在するメディアであるビジュアルノベル。想像の余地と映像の魅力の良い所取りであるメディアが何故もっと流行ってくれないのだろうか?
エロゲーでそれが流行る理由は、コストと需要にあるのだと思う。なんせCGと文章と効果音さえあればゲームが1本作れてしまうのだから。贅沢して音声を乗せても、コストはそんなにかからない。にも関わらず「一定の」需要が確実に存在する。
昔、「街」というソフトがあった。俳優を使った実写で構成されたビジュアルノベルだ。これは、チュンソフトが「弟切草」「かまいたちの夜」についで作ったシリーズ3作目だ。僕は3本の中でも、「街」は屈指の名作だと思っている。映画でもない小説でもない新たな娯楽の出現だと思ったものだ。でも、実際にそれが定着することはなかった。売れ行きがイマイチだったらしい。オマケに制作費は映画並にかかるそうだ。「街」ほどのクオリティの作品をもってして成功とは程遠い結果しか残すことができなかった。それがすべてなのだろう。このメディアは、少なくともその段階では万人に受け入れられるものではなかった。
だから、僕がときどき、無償にその「新しいメディア」に触れようとする時にはエロゲーをやるくらいしか選択肢がないのである。まあ最近は「濡れ場があるビジュアルノベル」くらいのものが多く、クオリティも無駄に滅茶苦茶高かったりするので問題はないのだけど。そんな風に思いながら、あやかしびとを一気にクリアした。文句のない良作。キャラクターの立ち方が半端ではない。久々に「新しいメディア」でしか得られない感覚を得たな、と思う反面これが「新しいメディア」でなくなってくれることを切に望むのである。

劇場版 air

arfy2006-08-14

夏が来ると思い出すもの。海、山、花火、浴衣。そんなあなたはまっとうな人生を送っている人。airや夏影を思い出すひと。俺。
京アニ製作のairと時代を同じくしてつくられた劇場版air。酷い、酷い言われ続け結局映画館に足を運ぶことはなかった。でも、京アニのクオリティが神すぎただけじゃないのか?と思えるくらいの度量の広さを身に付けた。そんな今だから劇場版airを見てみよう。
感想。たしかに酷いが、大騒ぎするほど酷いものでもない。というのが率直な感想。「素材が素晴らしいので、多少手を加えたところで食べられないことはない」という例えが適切だろうか。信者くさくて申し訳ないが、ここで京アニなら「素晴らしい素材は、余計な手を加えずそのまま食べるのが一番美味しい。誰もがそう思うところを裏切って、さらに素晴らしい料理を提供する」。
話がそれたけど、劇場版airは素材をなんとか残して調理を行っている。そこだけが救いだった。夏影が流れないのはそれだけで万死に値すると個人的には思うけど、それでもliaの歌はちゃんと使ってた。物語の大筋もいじってない。アニメ版との差別化を図るために、突拍子もない方向へ突っ走ってしまいそうなシチュエーションで、それだけはやらなかったことには賛辞を送りたいと思った。あと、ゲーム版をやってみる気にさせたのも功績。

時をかける少女

arfy2006-08-13

ネットを見てると、なんか今上映中の時をかける少女がすごいらしい。何より、情報を聞く限り客筋が良さそうだ。久々に一人で映画でも見たい気分だったから調度いい。池袋のテアトルのナイターで見ることにした。
上映1時間前。先にチケットを買ってから晩飯でも食べよう。そう思って8Fに上がった。しかし、そこで告げられたのは「只今、列になっておりますのでお並び下さい」。おいおい、ちょっと待ってくれ。映画で並んだことなんて、高校生の時に見たエヴァンゲリオンの公開初日以来だぞ。おまけに、朝軽くパンをかじっただけでほとんど何も食べていない。とはいえ、立ち見とかはマジやってられないので並ぶことにした。幸い涼宮ハルヒで読んでない部分が少し残っていた。売店のお菓子を食べながら待つ。
開始の20分前。席が全て埋まった。開始直前。立ち見で溢れている。客筋は前評判通り、浮ついた感じの人間は少ない。それでこそ一人で来たかいがあったというものだ。緞帳が開く。物語が始まる。
話の筋は全く仕入れずに行ったけれど、とりあえず泣けるという感想が多く見られた。だから泣こうと思って行った。序盤、コミカルな感じで話が進んでいく。どうでもいいけど、映画でいかにも「ここで笑ってくれ」みたいなシーンで何故みんな声を出して笑うのか。マナーなのか?薄ら寒いギャグに対してのそれに怒りを覚えるのは俺だけだろうか?とはいえ、一般の人なら、こういう箇所で笑うのかという点は自宅で一人DVDではわからない。それは映画の醍醐味なのだろう。こう書いてると全然コミカル部分が楽しめなかったように見えるが、そうでもないお笑い用語で言うところの「天丼」(字は合ってるのだろうか?)部分はさすがに笑えた。来るぞ、来るぞほら来たぞ的な。
物語が終わる。結論として泣かなかったが、気分が久々に空っぽになった。映画の余韻が強すぎて何も考えたくない。こんな感覚もエヴァ以来だ。青春真っ盛りのテーマが、20代半ばの俺にはそう遠くない場所なのに決して届かない場所というリアルな喪失感を呼び起こす。素直になれなくて夏。子供のころに見る物語は、全て自分にとっての可能性だ。でも、大人になってのそれは違う。人生において、もう過ぎてしまったもの。そうだった可能性もあるけれど、自分はその可能性に乗ることが出来なかった物語がある。というか大半はそんなものだ。「time waits for noone」。劇中、象徴的に使われおそらく主題であろうその言葉が重たくのしかかる。
夢遊病のように街を闊歩する。その街は、学生時代歩き慣れた街。一つ一つの道、建物にすら思い出の残る街。そんな街から意識を現実に引き戻すには随分と時間が必要だった。

geocityがすごい。

arfy2006-08-09

現在、仮死サイトとして存在しているAFISION!!なのですが
このサイトの前はアフィシオンというサイトをやっておりました。
現在、グーグル大先生をもってしてもたどり着くことのできない
幻のサイトなのであります。

そんなページをふとしたはずみで見てみたのさ。
まだあるでやんの。
すごいね、あれだけ放置してても削除されない。

しかも、急に記憶が活性化してきたので隠しページのアドレスに飛んだ。
まだ残っていた!!
地球か。何もかもが懐かしい。

ていうか若かりしころの自分の文章ってなんかすごいね。
当時はアレが格好良くてモテる文章だと思って生きてたわけだよね。
人間ってすごい。なんかもう生きとし生けるもの全てに感謝するから
どうか昔の俺を消して下さい。

それにしても、対話形式の文章ってなくなったね。
一時期は大ブームだったのに。それも時代か。
当時の僕もそんな対話形式のテキストサイトライターだったのですよ。
アーフィーなんて相方キャラクターもおりましてね。
もうちょいあの形式も流行ってくれても良いと思うんだけどね。
そういや、侍魂の影響をモロに受けたようなフォントいぢり系もなくなったね。
アレも一時のブームだったのか。
結局のところ、シンプルな形に落ち着く。
やはりこれが真理なのかもね。
当時はあれこそネットのテキスト!って感じだったのに。

自分がネットで垂れ流した全ての文章を保存してくれるサービスがあったら
流行るんじゃないかなあ。
自分の痛い文章を、楽しんで見れるその日は必ずやってくるのだから。