理屈馬鹿。

「拳銃で自殺する人間の9割はこめかみに銃口を押し当てて、引き金を引くそうだ。これはとても愚かな話だ。そのやり方による自殺の成功率はそんなに高くない。脳をはずれてしまうこともあるし、中途半端に急所をはずしてしまうと苦しみながら死ぬことになる。最も賢い拳銃自殺の方法は口に銃口を咥えてトリガーを引くやり方だ。この方法ならば絶対に狙いをはずしてしまうことはないし、当然即死だから苦しむこともない。」

「愚かなのは君の方だ。彼らは頭の中で暴れまわる終わりのない苦痛から解放されるためにその引き金を引くのだ。決して喉が痛くて自殺をするのではない。君は想像力が欠如している。様々な紆余曲折の末、最後の、最悪の選択肢を選ばざるを得なかった人間について少しでも想像を働かせることができる人間ならばそんな言葉は決して言わない。」

僕がこんな感じの文章を見たのは2ちゃんねるのどこかだったと思う。自殺すると言ってる人間を止めるべきか放っておくべきかという論争だった記憶がある。この文章を貼り付けた人の真意はおそらく、「自殺するって言ってる人間についてほとんど何も知らないようなヤツが安易にその自殺を止めようとするのは間違っている」というものだったはずだ。安易に「自殺はやめて」なんて言う人は前者の人間と同じということだと言いたかったのだろう。ただ、僕個人としては真意とは全く別のところで考え方に影響を与えられた。

文章を見てもらうと理解してもらえると思うけど、僕は考え方がとても理屈っぽい。もちろん穴ぼこだらけで、理路整然としてるとは言いがたいけど方向性としてはやはり理屈っぽい文章になってると思う。

そんな僕はこのお話をいわば寓話のように捉えて、自分に対する戒めとしている。理屈で考えていくとどうしても人の心をないがしろにしてしまう部分がある。理屈で言えば、当然前者の人が正しいのだ。じゃあ人として正しい考え方をしてるのはどちらかと言えばやはり後者だと思う。

「人は理屈だけで動くものではない」という理屈を受け入れること。その瞬間、理屈馬鹿の人は決して解けないメヴィウスの輪に迷い込んでしまう。二律背反、アンチノミーってヤツだ。

じゃあ感情丸出しの人になれば良いのかっていうとやっぱりそれも違う気がする。結局のところ、感情と理屈のうまいさじ加減を理解している人が「完成された大人」だとか「思慮に富んだ人」とかって呼ばれて賞賛されるのだと思う。何とも難しいお話だ。