姥捨て山(終)

子供の頃の記憶はふとした瞬間に蘇る。

それが臭いだったり、風景だったり、昔の夢を見たりだったりするならわかりやすいが、全然関係ない雑談の中からふいに思い出が蘇るなんてこともあるから面白い。
それでも、それらの「思い出し装置」を統計的に数えていったらやっぱり「作品」に触れた時というのが最も頻度としては多いと思う。

日本昔話を見た時にも連鎖的に記憶がつながった気がする。タイトルの姥捨て山自体を過去に見たかどうかは定かではないけど、教育番組に見られる「勧善懲悪モノ」のお手本のようなシナリオ。(あらすじは一回目に書いたのでそちらを読んで下さい)

最近は子供番組においてこういうストレートな勧善懲悪モノは減ったような気がする。もちろん、僕は子供向け番組なんて全然見ないから本当にそうなのかと聞かれても困ってしまうけれど、最近の「子供向けなんだけど大人も楽しめる」という作品が人気を集めている情勢を見ると僕の見解はそうはずれてはいないと思う。

大人でも楽しめる子供向け作品の条件は「子供向けだからひねりすぎていないけれど、深い読解力が身についていると別の角度から楽しめる」というものだと思う。それは逆に言えば多少なりのひねりが必要ということだ。

「姥捨て山」は、本当に一遍のひねりも存在しない。いわゆる教訓話を一本のアニメとして作っているにすぎない。でも、それを説教臭いだとかひねりがないとか言うのは今だからできるのであって、子供のころは余計な邪推なくただただ純粋な目でそれを見ていたはずだ。

月日は流れ、正しさとか間違いの定義がいかに曖昧かがわかるようになる。戦争も良い国と悪い国がやってるなんて考えていることのできた時代に終わりが来る。

大人の世界ってのは色んな人が色んなトコで色んな考え方を持っていて、もう何が良くて何が悪いのやらわからない世界だ。しかも、情報は大抵は自分で手に入れたものじゃなくて他人から伝えられたもので、そんなもんから自分の立ち位置を決めろなんていうのは無茶な話だ。でも、僕は逆にそこが歳食って面白いトコだと思っている。子供の頃は正義と敵の二つの世界にしかいることができなかったのに、今ではどこにでも行けるようになったんだから。

それでも不安定な立場であることに変わりはない。そして誰だって不安定な立場では例外なく不安を覚える。だから時々童心に帰りたくなるのだと思う。世界は狭いけれど、確固たる踏み場が存在した時代に。

そういう意味では回帰の気持ちは宗教に近い意味合いを持っているのかもしれない。不安だから、わからなくなるから確かなものにすがりたくなる。時々ならそれで良いと思う。だけど、妄信はほとんどの場面で良くない方向へと進んでしまう。何事においてもそうだけど、距離感が非常に大切だ。

そんな所に「子供心も忘れていない大人の人間」が世間的に評価される理由が隠れているような気がする。