姥捨て山(4)

20歳になった時、体感速度としては人生の半分が終了した、なんて説がある。
僕もハタチを過ぎて二年間が過ぎたけれど、その説はあながち間違いじゃないなあと思う。歳を重ねれば重ねるほど一年が早く過ぎていくようになっているような気がする。
それはきっと密度のせいだと思う。その理由の一つとして、子供と大人では吸収しなければならない情報量、吸収できる情報量が圧倒的に違う。20年前は言葉さえもわからない存在だった僕が、今ではその気になれば地球の裏側の人間と意志の疎通を行うことさえ可能なのだから。

だけど、もっと大きな理由。それは子供の頃は人生が「ドラマティック」だったからに他ならないと思う。

何をおっしゃいます、大人になってからの方がよりドラマティックに生きている人なんて星の数ほどいるじゃないですか。芸能人だとかスポーツ選手だとか、最近ではlivedoor堀江貴文社長とか。

そんなツッコミを入れることが可能だろう。でもね、それはあくまで「想像できる範囲内でのドラマ」に過ぎないと僕は思う。例えば、松井選手やイチローがどんなにがんばったところで打率10割を越すことは絶対に出来ないし、野茂が防御率を0より下げることは出来ない。堀江社長も究極的には大きな会社を作ることしかできない。当然彼らはみな頭の中でそれを理解している。

ちょっと例が極端すぎる感はあるけど、要は限界を理解した上でのドラマなのだ。
それに対して子供はどうだろう?自分の幼年時代を思い出してもらいたい。町を歩いていても、何のためのお店なのかわからない店がいくつもあったこと。自分の活動領域より外は全くの異世界であったこと。特定の単語が意味もなく面白くって面白くって何度も何度も繰り返して発音したこと(僕の場合は「御成門」だった)、昆虫が不思議で3時間でも6時間でも意味もなく眺めていられたこと。

多分、歳を重ねるにつれて「意味のあること」と「意味のないこと」を分けるようになっていくのが原因なのだと思う。本を読むことは教養を身につけるためだし、お洒落をするのは異性にモテたいだとか社会的な侮蔑を避けるため、ブランド物や外車に乗りたがるのは自分のステイタスを誇示するため。
もちろん「俺は馬鹿らしくてブランド物なんて絶対身につけないぜ!」という人はいるけど、それは身につけないことに意味を見出しているのだからやっぱり一緒だと思う。

たまに手慰み程度に「意味のないこと」をやることは誰にでもあると思う。例えば、目的地に行く時に山手線を逆周りに乗るとか、あえて最短距離以外の道を通って家路につくとか。でも、それは「意味のないこと」に意味を見出そうとしているのだから、結局「意味のあること」になってしまう。

「意味のあること」は「打算」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。
昆虫を日がな一日眺めていた時間、同じ単語を繰り返し発音して親に「もうわかったから辞めなさい」と言われた時間。そこに打算は確実に存在しなかった。

時に僕達が「意味のないこと」をすること、自分にとって確実に不利になるような選択をすること。それは過去に体感した「ドラマティック」に近づきたいという欲求が無意識にそうさせるのかもしれない。

今回で終わらせるハズだったのに、全く終わらなかった…。というわけでまた次回。